しばおの映画部屋

映画鑑賞記録

ヲタクの夢と心をくすぶる『声優ラジオのウラオモテ』(橘秀樹、2024)

 2024春アニメは主人公が転生して新たな人生を歩み始める「転生モノ」が多い。5つのアニメが覇権を争う中、突如として「日常モノ」がダークホースとして現れた。それが『声優ラジオのウラオモテ』だ。

 

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 電撃文庫から出版されている二月公原作のアニメ『声優ラジオのウラオモテ』は、声優アイドルで、クラスメイトでもある女子高生2人がレギュラーラジオ番組を持つという声優が声優を演じるメタフィクション的な作品となっている。

 ウラオモテと題してある通り声優として活躍する女子高生の表の顔と、裏の顔=普段の生活での自分のペルソナが見られる。オモテは清楚、ウラでギャルの歌種やすみ/佐藤由美子(CV:伊藤未来)と、オモテはおっとり、ウラでは地味な夕暮夕陽/渡辺千佳(CV:豊田萌絵)の2人が見せる舞台裏でのやりとりは声優アイドルのリアルを浮き彫りにする。しかし、筆者のような声優ヲタク、通称声オタはその姿を見ても落胆しないどころか、ニチャアとほくそ笑む。というのも、声優の2人伊藤未来と豊田萌絵はリアルでPyxis(ピクシス)というユニットを組んでいるからである。

 

 声優ヲタクをはじめ、ヲタクたちはアイドルの裏事情や推しのウラの顔は知りたくないと看過してしまうことがある。私も声優アイドルのリリースイベントに足を運んでいるが、推しが陰で自分のことを言っていたらと思うと震えが止まらない。(これはやや自意識過剰かもしれないが、ヲタクとは自意識過剰な生き物なので見過ごしてほしい)

 

 しかし、このアニメはウラを日常生活でのもう一つの顔と解釈することで、ヲタクの夢を壊さずに、むしろ声優と日常生活におけるギャップに妄想の余地を与えるのだ。こういったヲタク心をくすぶるアニメを待ち望んでいた。加えて、今では多くの声優たちが抱えるラジオ番組制作の裏側、構成作家との緻密な打ち合わせや、プロデューサーからの要望と、声優だけでなく業界の話が入ってくるのも斬新だ。

しかし、そこで起こっていることは紛れもない事実『マリウポリの20日間』(ミスティラフ・チェルノフ、2023)

 2022年2月24日、ロシアは特別軍事作戦の名のもとにウクライナへと侵攻を開始した。『マリウポリ20日間』(20 Days in Mariupol、2023)はAP通信の記者であり、本作の監督でもあるミスティラフ・チェルノフがマリウポリにロシアが侵攻してから最初の20日間を記録したドキュメンタリー映画である。

 

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 本作は米国第96回アカデミー賞において長編ドキュメンタリー賞を受賞した。監督自らが電波の届かない戦場で命がけで撮影した映像には、数えきれないほどの市民の姿が収められている。突然の襲ってきた惨禍に立ちすくむ者や、息子の帰りを待つ母親、インタビューを拒絶する夫婦、犠牲者の亡骸を淡々と埋葬する市役所職員、病院でけが人の治療をする医師と看護師、市民を守る軍人。目を疑うような非人道的な光景には、映画内で流れるニュースが用いる言葉は「映画のような」という文言であった。しかし、これらの映像は紛れもない事実なのだ。今自分の目の前で流れている映像が現実に起こっていることだと受け入れるのには十分すぎるほど、カメラに収められた者たちの目は暗く、怒りや悲しみに満ちていた。

 〇日目というテロップが表示され、フェードアウトでその日付が進むたびに状況は悪化する。同時に映画内に漂う低くローテンポの音楽がその恐怖を増幅させる。画面の暗転の後に画面に映されるのは朝日ではなく、ミサイルによって破壊された建物や爆発音であるように、観客は日数の経過をテロップからしか得ることができない。見ている者の時間感覚を失わさせるのが、この映画の恐ろしさであり、普段私たちが享受している日常が戦争によって奪われようとしている。"This is painfull"という劇中の言葉が映画館を出た後も重くのしかかる。加えて、世界のテレビメディアが流される中で数秒映る日本のテレビには、特異さのようなものも感じた。

長いチュートリアルが終わった先に。『デューン 砂の惑星 PART2』の映画"体験" ※ネタバレあり

 2021年に公開されたフランク・ハーバート原作のSF作品『デューン 砂の惑星』(原題:DUNE、ドュニ・ビルヌーブ、2021)。物語が壮大すぎるが故に、映像化の権利をいくつものプロダクションが行き来したという逸話をも持つ。苦難の末に映像化が叶った本作の待ちに待った続編が公開されたため、ネタバレありで見た直後の気持ちを綴っていく。

 

※以下、『デューン 砂の惑星』『デューン 砂の惑星 PART2』のネタバレを含みます。

 

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 人間に長寿と叡智を授ける「メランジ」という資源を得るために、宇宙を収める皇帝はアトレイダス家を見渡す限り砂漠の星「アラキス」に派遣する。しかし、それは皇帝に反抗的なアトレイデス家を始末するための罠であり、一家は皇帝と、アトレイデス家に恨みを持つハルコンネン男爵(ステラン・スカルスガルド)によって滅ぼされてしまう。突然の災禍を生き延びた一族の末裔ポール・アトレイデス(ティモシー・シャラメ)は一族の敵を討つために、アキラスに住む原住民フレメンの協力を得ようと試みる。自分たちを搾取してきた一族の一人であるポールに対してフレメンは警戒心を解こうとしない。そこで、フレメンの男であるジャミス(バブス・オルサンモクン)とポールが、彼ら/彼女らのしきたりである決闘を通して自分の存在を認めさせようとする。

 この一連の流れがPART1にあたる『デューン 砂の惑星』(以下、パート1と呼称)のプロットである。公開日に映画館に足を運んだ私はハンス・ジマーの奏でる荘厳な劇伴をIMAXシアターで、全身で体感していたのを覚えている。同時に、「この映画の山場はどこだったのか」という疑問が頭の中の大半を占めていた。というのも、この作品は上映時間が155分と決して短い上映時間ではないからだった。本シリーズのような続編の公開を視野に入れた、いわゆるビッグバジェット作品というにはキャスティング、視覚効果や特殊メイクの面において申し分のないクオリティではあった。しかし、起承転結でいうところの”転結”が約二時間半をかけて「次回へ続く」だったことに呆然としていた。『スターウォーズ』シリーズでいうところの「遥か銀河の彼方、遠い昔~」、ゲームでいうチュートリアルを終えて、これから楽しくなるというところで「続きは製品版で」と終わる体験版をプレイしているようだった。それから約2年の月日が過ぎ、続きを見られるということで、公開日にIMAXシアターで鑑賞してきた。

 

 『デューン 砂の惑星 PART2』は、フレメンに認められたポールが彼ら/彼女らと行動を共にしながら自身のルーツを辿る前半部分と、皇帝に反旗を翻す後半部分で構成される。前者を修行パート、後者を決戦パートとすると、この構図は『スパイダーマン』シリーズ(サム・ライミ、2002~2007)を彷彿とさせるサクセスストーリーだ。特に本作ではヒロインにあたるフレメンの戦士チャニ(ゼンデイヤ)とポールが惹かれ合っていくメロドラマ的要素が存在する。パート1で繰り広げられたアトレイデス家とハルコンネン家の一族同士の確執、帝国とそれに服従する貴族といった緊迫した政治ドラマの裏で、2人のパーソナルな物語が進行していくのには現在放送中の大河ドラマ『光る君へ』と似たものを感じた。

 

 映像面に関しても、パート1で待ち続けたSFバトルをファーストカットから繰り出してくる。ハンス・ジマーの神秘的な劇伴とIMAXシアターの四方を囲むスピーカーが場内に響き渡り、映画館が揺れる。フレメンたちが乗り物として利用する砂虫(サンドワーム)が出現する前の無音の荒野に鳴り響く地響きから、地上に姿を現した後の音の暴力には、映画館で延いてはIMAXで映画を”体験”する感覚を久々に思い出した。パート1という長いチュートリアルを終えた先に、至高の映画”体験”をすることが叶った。もし、1回目を見て物足りなさを感じたなら是非IMAXで2回目を見に行くことを勧めたい。

 

母は助手席に誰を乗せたかったのか。『僕らの世界が交わるまで』ネタバレありレビュー

 

 社会奉仕活動に勤しむ母親と日々自分の音楽を動画配信サイトで世界に発信する息子の間に生まれる親子のすれ違いを描いた『僕らの世界が交わるまで』(ジェシー・アイゼンバーグ、2022)。原題は“When You Finish Save The World” (直訳:あなたが世界を救い終わるとき)であるが、このタイトルは母親と息子のどちらの目線で映画を見たかで解釈が変わってくる。本レビューでは母親の目線からこのタイトルについて紐解いてみようと思う。

※以下、物語のネタバレを含みます

 

 

 思春期真っ只中の高校生ジギーは毎日自分の音楽を世界に発信することで自分の承認欲求を満たしている。母親であるエヴリンはDV被害に遭った人たちが安心して暮らせるシェルターを運営している。母親であるエヴリンは思春期の息子が部屋にこもって配信をしていることを快く思っていない。その反面心配もしているが、ジギーは母親の意見を聞き入れようとしない。思春期の子どもを持つ家庭なら一度は必ずあるシチュエーションは、当然私にもあった。2人の心はすれ違いを見せる一方で、お互いを拒絶してしまう行動に対する罪悪感が表れる瞬間がある。それが、エヴリンが車を運転するシーンだ。

 

 エヴリンが運転するのは2人乗りの小さな車である。エヴリンは劇中でこの車を唯一の移動手段として用いる。ラジオで優雅なクラッシック音楽を流しながら目的地へと向かう彼女だが、劇中で助手席に誰かが座っているのはたったの2回である。そのうちの1回にジギーを乗せていて、もう1回にはエヴリンが務めるシェルターにDV受けた母と暮らすカイルという青年を乗せる。通常であれば、運転手が誰かを車に乗せる理由は同じ目的地に向かうか、1つの目的地に送るかの2つに限られる。エヴリンが劇中で唯一ジギーを自分の車に乗せたとき、2人の間で口論が起こり結果的にジギーは車から降りてしまう。つまり、エヴリンはジギーを目的地へ送り届けることが叶わなかった。口論の発端は、友達の間で交わされる政治的な話についていけないジギーから「自分が政治的であるべきか」と相談を受けたエヴリンが「近道はないのよ(中略)本を読んで知識をつけていきなさい」と返答し「近道っていうなよ」とジギーの逆鱗に触れてしまったのがきっかけである。

 ここで重要なのは、2人が車に乗りながら、道というメタファーを用いて会話をしている点だ。エヴリンにとってジギーを決まった道に沿って目的地へ送り届けるという行為は、自分が母親として息子の将来への道を示す、いわば親としての責任を果たせる行為なのだ。それができなかったのは、彼女にとって息子が自分とは違う世界に生きているという現実を突きつけられた瞬間だったのかもしれない。

 

 これ以降、自分により反抗的な態度をとるようになったジギーに対してエヴリンは、カイルを過剰なまでに寵愛するようになる。特に印象に残ったのは、夜遅くに帰宅したジギーにエヴリンが憤り、ジギーのための食事をカイルのもとへ届けるところだ。この時にもエヴリンは車に乗るわけだが、助手席にはアルミホイルで包まれた食事が置かれている。助手席とともに映される空しく置かれた食事には、彼女がジギーに対して料理を手に取ってもらえなかった悲しみを感じる。また、エヴリンはジギーとの間に生まれた溝を埋め合わせるように助手席にカイルを乗せるが、彼女の一方的な良心は、彼に自分の気持ちを見透かされているかのように拒絶されてしまう。

 

 この映画は親子喧嘩の末に2人がどうなったのかをはっきりと描かず、エヴリンがジギーの動画を眺める様子で幕を閉じる。邦題は『僕らの世界が交わるまで』になっているが、2人の世界はいつ交わったのだろうか。2人しか乗れない小さな車をエヴリンにとっての親子水入らずで対話をできる唯一の空間だとすると、彼女は自分に悩むジギーを人生の目的地へと送り届けられなかったことに負い目を感じていたのかもしれない。そう考えると、本作で口論以後映される誰もいない助手席は、エヴリンが“When You Finish Save The World”(あなたが世界を救い終わるとき)まで隣を空けて待っている。道に迷ったらいつでも相談に乗るというエヴリンがジギーに向けた思いの表れなのだと筆者は考える。