しばおの映画部屋

映画鑑賞記録

母は助手席に誰を乗せたかったのか。『僕らの世界が交わるまで』ネタバレありレビュー

 

 社会奉仕活動に勤しむ母親と日々自分の音楽を動画配信サイトで世界に発信する息子の間に生まれる親子のすれ違いを描いた『僕らの世界が交わるまで』(ジェシー・アイゼンバーグ、2022)。原題は“When You Finish Save The World” (直訳:あなたが世界を救い終わるとき)であるが、このタイトルは母親と息子のどちらの目線で映画を見たかで解釈が変わってくる。本レビューでは母親の目線からこのタイトルについて紐解いてみようと思う。

※以下、物語のネタバレを含みます

 

 

 思春期真っ只中の高校生ジギーは毎日自分の音楽を世界に発信することで自分の承認欲求を満たしている。母親であるエヴリンはDV被害に遭った人たちが安心して暮らせるシェルターを運営している。母親であるエヴリンは思春期の息子が部屋にこもって配信をしていることを快く思っていない。その反面心配もしているが、ジギーは母親の意見を聞き入れようとしない。思春期の子どもを持つ家庭なら一度は必ずあるシチュエーションは、当然私にもあった。2人の心はすれ違いを見せる一方で、お互いを拒絶してしまう行動に対する罪悪感が表れる瞬間がある。それが、エヴリンが車を運転するシーンだ。

 

 エヴリンが運転するのは2人乗りの小さな車である。エヴリンは劇中でこの車を唯一の移動手段として用いる。ラジオで優雅なクラッシック音楽を流しながら目的地へと向かう彼女だが、劇中で助手席に誰かが座っているのはたったの2回である。そのうちの1回にジギーを乗せていて、もう1回にはエヴリンが務めるシェルターにDV受けた母と暮らすカイルという青年を乗せる。通常であれば、運転手が誰かを車に乗せる理由は同じ目的地に向かうか、1つの目的地に送るかの2つに限られる。エヴリンが劇中で唯一ジギーを自分の車に乗せたとき、2人の間で口論が起こり結果的にジギーは車から降りてしまう。つまり、エヴリンはジギーを目的地へ送り届けることが叶わなかった。口論の発端は、友達の間で交わされる政治的な話についていけないジギーから「自分が政治的であるべきか」と相談を受けたエヴリンが「近道はないのよ(中略)本を読んで知識をつけていきなさい」と返答し「近道っていうなよ」とジギーの逆鱗に触れてしまったのがきっかけである。

 ここで重要なのは、2人が車に乗りながら、道というメタファーを用いて会話をしている点だ。エヴリンにとってジギーを決まった道に沿って目的地へ送り届けるという行為は、自分が母親として息子の将来への道を示す、いわば親としての責任を果たせる行為なのだ。それができなかったのは、彼女にとって息子が自分とは違う世界に生きているという現実を突きつけられた瞬間だったのかもしれない。

 

 これ以降、自分により反抗的な態度をとるようになったジギーに対してエヴリンは、カイルを過剰なまでに寵愛するようになる。特に印象に残ったのは、夜遅くに帰宅したジギーにエヴリンが憤り、ジギーのための食事をカイルのもとへ届けるところだ。この時にもエヴリンは車に乗るわけだが、助手席にはアルミホイルで包まれた食事が置かれている。助手席とともに映される空しく置かれた食事には、彼女がジギーに対して料理を手に取ってもらえなかった悲しみを感じる。また、エヴリンはジギーとの間に生まれた溝を埋め合わせるように助手席にカイルを乗せるが、彼女の一方的な良心は、彼に自分の気持ちを見透かされているかのように拒絶されてしまう。

 

 この映画は親子喧嘩の末に2人がどうなったのかをはっきりと描かず、エヴリンがジギーの動画を眺める様子で幕を閉じる。邦題は『僕らの世界が交わるまで』になっているが、2人の世界はいつ交わったのだろうか。2人しか乗れない小さな車をエヴリンにとっての親子水入らずで対話をできる唯一の空間だとすると、彼女は自分に悩むジギーを人生の目的地へと送り届けられなかったことに負い目を感じていたのかもしれない。そう考えると、本作で口論以後映される誰もいない助手席は、エヴリンが“When You Finish Save The World”(あなたが世界を救い終わるとき)まで隣を空けて待っている。道に迷ったらいつでも相談に乗るというエヴリンがジギーに向けた思いの表れなのだと筆者は考える。